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第二幕 まちのふとん屋時代


<菊屋として「健康医療ふとん」で再出発>


父は自らが興した「三島屋ふとん店」を「菊屋」と改めて他界したのですが、その寝具店・菊屋を私が継承したのは1979年(昭和54年)。


コーポレート・アイデンティティ (CI )と言って、企業のあるべき姿を体系的に整理し、それに基づいて自社の文化や特性・独自性などをイメージ、デザイン、メッセージとして発信することで会社の存在価値を高めようとするビジネス手法のもと、多くの会社が社名変更に乗り出すのは1980年代に入ってからのことですから、亡くなる前に社名変更をしたも父は先駆的な考えの持ち主でしたと言えます。とても当時の私にはできないことまでしっかりお膳立てをして逝ってくれたのでした。


けれども、この先どのようにしていくのかなど、まったくわからなかったのですから、名前を変えたからと言って、やっていることはしっかりとふとん屋です。ふとんを販売するしか生きていける道はなかったのです。


すでに従前の寝具店の社会的使命は終了しかかった頃のことでありました。


私はその下っていくエスカレーターでしたが、地域のお客様の安眠の担い手になるべく、必死になって駆け上ろうとしていました。


健康で快適な眠りを提供しますと掲げても、モノのなかった父の時代とは違い、「ふとん屋」に足を運ぶ人は少なくなって、客足はどんどんと遠のき、こちらから布団を担いで、訪問販売でもしなければ店の維持ができませんでした。


その右も左もわからない私が、父が晩年に販売権を獲得して残してくれた健康医療ふとん「ネオ・キャップロール」という、初めて「発明賞」を獲得した敷ふとんでした。
 

この敷ふとん、当時の価格は55,000円でした。このネオ・キャップロールを担いで、毎日毎日、雨の日も風の日も一軒一軒、扉を叩いての訪問販売をしました。この敷ふとんを通して、地域のみなさまに安眠をお届けしようと、若さと気力と体力をとりえとする私の「まちのふとん屋時代」がはじまりました。そうです。原点はこの健康医療敷ふとんの「ネオ・キャップロール」でした。
 

【キャップロール社について】


新幹線の座席を開発した千葉大学の小原二郎教授の理想の寝具構造とされた「三層構造」と、当時東証二部上場の天昇電気に依頼してできたマイナスイオン発生器を設計し、それを販売する会社がキャップロール社でありました。


その代表的商品がネオ・キャップロールでした。各県ごと販社をつくり、そこから限定数の代理店を置いて、商品販売をしていたのです。
父は亡くなる少し前に、静岡県の販社に当たるテレビ静岡商事と代理店契約を結んでいました。
それがふとんの職人の道を歩まなかった私への丁稚的な仕事、すなわち地域のお客様一人一人に、安眠をお届けする基本的セールスマンシップを身に着けるようにと、父が遺した仕事であり、それに見合った素晴らしい商品であったのだと今になってしみじみ思うのです。


あの営業スタイルは家業の寝具店ではなかなか学べるものではありません。当時のキャップロール社と静岡県下での販社であったテレビ静岡商事さんでの数々の「営業訓練」を通して、真の営業マンシップを身に付けさせていただきました。


店にお客様が来なくなったればこそ、打って出るしかなかったし、そのための格好の商材をキャップロール社は私に与えてくれたのす。
 

 この時点で、マイナスイオンのなんたるかも知らない私でしたが、繰り返し繰り返し、唱えた口上があります。
これは、私が還暦を過ぎてから出会った裸足になって大地に接する健康法である「アーシング」と関係してくるようですから、その口上をここ記しておこうと思います。


すなわち、私がアーシングと出会う前まで理想の睡眠環境として掲げた三つの条件である(1)正しい寝姿勢 (2)床の中の湿度50% (3)床の中の温度33℃ 以上の3点を「安眠のための必須条件」として、寝具の選択と提案をするようになったのですが、それよりも前にこのキャップロールでマイナスイオン効果について、叩き込まれたのでした。
 

「マイナスイオンは、血行をよくし、身体を弱アルカリ性にして、自律神経のバランスをとります」


アメリカから上陸した古くて新しい健康法であるアーシング=裸足になって地球と接する健康法のアーシングの効果もこれに似たものであります。 


三層構造で正しい寝姿勢をたもちながら、イオン効果で、肩こり・腰痛・不眠から解放されますと、地域のお客様の安眠の担い手になるべく、安眠の伝道師の如く、ただひたすら説いて歩く毎日を過ごしていたのでした。


じぶんがへこたれそうになると、浜辺に行っては、「なにくそ根性」、「燃えよ火の玉のごとく」、「売ることをもって本分とすべし」と叫んでは気合を入れなおし、セールスマン魂を奮い立たせて頑張ったのでありました。


それでも経営の実情は、自転車操業であったのでしょう。まもなく、キャップロール社は倒産の憂き目を見たのです。そして、発明賞を獲得するほどの画期的な目玉商品であったネオキャップロールは、別会社に引き継がれることになったのです。


健康寝具のキャップロール社は東京に「眠りの科学センター」を開設してくれたおかげで、私は早くから眠りについて、科学的な勉強をさせていただきました。当時はどの寝具メーカーもそこまではしていなかった時代でした。


菊屋として店を継承した当時、私は店を維持するために、店にこもって、お客様のご来店を待つよりも、積極的に出向いて安眠をお届けすることの方を選んだのです。


このように「こんにちは菊屋です」と言っても誰も菊屋の存在を知る人はいませんでした。三島屋ふとん店なら地域での知名度はありましたが、改名したばかりの「菊屋」を知る人は誰もいませんでした。


困りました。困り果てて、苦肉の策で私は自分の似顔絵を額に入れ、チラシ・広告にも活用してきました。




1982年 京都太秦映画村で描いてもらった私の似顔絵 菊屋のシンボル

 

私は、コーポレーションアイデンティティを実施して社名変更をした「菊屋」を継承したのですが、キャップロール社が倒産した後、町のふとん屋の二代目店主として、寝具メーカー、問屋さんの指導の下、あの手この手と、販売促進に励んできました。


けれども社会的使命を完了した下りのエスカレーターのスピードもどんどんとアップしていき、働けど働けど我が暮らし楽にならない時代を懸命に生きていました。
 

この苦境の中にあって気付くこと、私の学ぶこととは?何度も何度も、父の墓前に手を合わせに行ったのでした。私は人々の安眠の担い手として何ができるのだろうか?と父に聞いたのです。


「物の時代は終わったのだ。気づけ!気づけ!確認せよ」 と自らに言い聞かせるも、 なかなか店も自分も変わることはできませんでした。
どうきれいごとを並べても、物品販売を生業とさせていただいている身の上。売れなければ、生活が成り立っていかなくなるのだから、変わるに変われない、メーカー問屋さんの言うことをよく聞くまじめな「まちのふとん屋時代」を生きていました。
 

生業という、小さな自らの為の仕事だから駄目なのであろうか。


当時の経営コンサルタントとして須田泰三さん「お店はお客様のため
にある」次に登場するのが地域一番店を目指す船井幸雄さん「包み込みの商法」
菊屋も地域一番店を目指すが、どうもおかしな世の中に移り変わろうとしていた。かつての地域一番店が、巨大資本によって、ことごとく苦戦している。
そうなると、弱者の法則というランチェスター戦略を学びました。いわゆる局地戦です。


チラシもいろいろと考えて、私の似顔絵入りのチラシ作りを続けてきました。
ふり返れば、その努力がいち早くHP開設に取りかかることができた原動力であったと思います。
 

もっと大きな使命をもってしっかりと世の中の役に立つ仕事をなければならないのだろう、と、必死に言い聞かせてきたのですが、また、生活することが優先となってしまって、お客様を追いかけ、追い詰めるような立場になってしまう毎日でした。
 

そんなふうに大きなミッション(使命)と小さな自分の葛藤の中で、皆さんに安眠をお届けできる、真にお役に立てるものは何であろうかと、孤軍奮闘の若き布団屋の二代目店主でありました。


世間一般での「若き人生の関所」として「進学」「就職」「結婚」があげられますが、やはり結婚は私にとって大きくのしかかった大問題でありました。何人の女性にフラれたのか、とても両手で数え切れる数ではありませんでした。
 

それでも、やっと、こんな私の元でも、嫁いでくれるという女性が現れたのです。
それは、今の家内ですが、隣の隣の隣の隣の同じ商店街のおもちゃ屋の娘で、同じ保育園に通った同級生です。かくして、家内も私も35歳で結婚することができたのでした。
 

本当に、うれしかったです!


婚約発表大売り出しのチラシを配布し、地元のお客様からたくさんのお祝いのお買い上げをいをいただきました。





自分で変わろう変わろうとしても、なかなか人生を変えることはできません。
変えることができるのは人との出会い・めぐり逢いによって可能になるものだと思ってきましたが、家内との結婚後、仕事関係でも、いろいろな方との出会いがありました。
 

その一人が「眠道」を掲げられた、寝具の製造メーカーの株式会社イワタの故・岩田卓三氏。
商品開発に関してもスリープケアシステムを立ち上げ、「目指せ睡眠の自然体」を基本理念に世界13ヶ国特許を有するイオゾンα2加工等の技術を駆使し世界に冠たる本物の羽ふとんの製造をメーカーのイワタの最高責任者でした。
 

私は父から受け継いだ眠りに対する考え方や、菊屋ならではの蓄積のもと、岩田氏からの指導を受け 「睡眠環境塾」 「羽毛研究所」に学び、一方では、「日本睡眠環境学会」の会員として、睡眠環境全般について勉強させていただきました。
 

その後、日本睡眠改善協議会でも、公認の睡眠改善インストラクターとしての生活習慣の改善指導方法など、いろいろと勉強する場をいただきました。
 

物は具現化して、後からついてくるものだと、人々の「眠りの質の向上」に働きかけることが自分たちの使命だと言い聞かせ、地元でまじめなふとん屋として歩んできました。
 

<使命(ミッション)と生業>
 

自分たち中小零細企業、とりわけ地方の商店は、メーカーがつくったものを販売して、そこからの利益(=売上ー仕入)で生活をしています。
 

何処の町に行っても、その町には、それぞれの業種の各メーカーの製品を元気に、頼もしく販売する小売業がたくさんありました。ふとん屋、洋服屋、おもちゃ屋、運動具店、化粧品店、電気屋・・・・・がそれぞれ自分たちの生活圏をしっかり持っていた。それで、生活をしてきました。
 

そして、その生業としての仕事とは別に、学校のPTA役員や、消防や、お祭りの担い手として、地域社会の役に立ってきたつもりだった。私も、娘の通っていた高校のPTA会長として卒業式や入学式で喋らされてきました。これまた、書き直しては何度も、何度も読み返さねばなりませんし、手間と時間を要するものでした。・・・このような役は、時間の自由がきくと思われがちな(その実、火の車のような)地元の自営業者に回って来るものです。
 

地域社会に、しっかりと根を生やして、養分を吸収させていただく代わりに、酸素の供出や、きれいな花を咲かせて地域の人々に喜んでもらったりしてきました。
もちろん、物品販売業者としても、住人の役に立ちながら、地域に生かせていただいた御礼も、ご恩返しもしてきたつもりだった。私たちの仲間は、元気に繁栄した植物のような、小売業者でありました。
 

そこへ昭和40年半ば頃から、そんな地域社会に餌を求めて、動物がやってきたのです。大きな資本の大型店です。ナショナルチェーンの量販店です。彼らはまず、中心市街地の商店街に進出して、次に餌を求めて郊外へ出て行ってしましました。
 

役に立つと言うことは、絶対評価ではなく、相対評価によって決まるものでもあります。
より良くて、より安く、より豊富な中から、より便利に、・・・・といった相対評価でもって決められることが多いのです。だから、物品販売だけなら大型店の方が役に立っていると言えましょう。


そんな中で、役に立つことが困難になった、小さな小売業者は、だんだんとお店を畳んでいくしかなかったのだろうか。
 

福島大学時代に下平尾先生からは、社会発展の法則や金融論を学んできました、その時の先生はしっかりとした「地域学」を打ち立てておられた。商店街の衰退と、そこの地域の力を発揮した力で世の中の役に立つといったここ遠州地方ならではの菊屋が編み出したおお麻・ヘンプ・カラミ織の蚊帳生地を用いた社会へのお役たち路線もご指導いただいたのです。


大資本・大型店の件の動物たちは、我が者顔で、たくさん餌をあさって、なくなるとどこかへ移動していくのですが、植物である地域の小売店は何処へ行くこともできずにへたばってしまう。弱肉強食とも言える自然界の掟でもありましょう。
 

役に立たなくなったら、お呼びでなくなったら、「これまた、失礼」とその場を去らなければならない。存続も許されなくなります。
 

ただ、ここで問題になるのは、その動物がどこかへ行ってしまうと、巨大な店舗は廃墟となり、街そのものも、寂れていくということだ。・・・・・・私たちの商店街も、名前はジュビロードと全国区なみですが、ご他聞にもれないシャッター通り、何とか役に立つように変わらなければと思っているが、相対評価をされて、誰に対して、どのように役に立つのか、役に立たしていただかなければ生きていけない身の上だと言い聞かせているのだが・・・・。
 

生業として立っていけなくなった時、もう一度、使命を考えるべきだ、
「我が身助かりたかったら、人に尽くせ」の理を、実践を通して証明させたいと思ってきました。
 

<眠りの勉強>
 

人々の役に立っていくことが、生きる力となることだ。となると、生業としても菊屋を継続していくにも、もっともっと、いろいろな勉強をしなければならないと言い聞かせてきました。


戦後まだ物が足りなかった頃は、物の供給だけで役に立っていた。
その後、社会の仕組みや機能が変わって、勉強しなければ役に立たない時代になっていったのです。
 

モノだけでなくコトにも精通しなければならない、それを具現化した商品を開発して、販売しなければならないと強く思い、単に仕入販売だけでなく、自らが役に立つ商品開発、商品づくりも必要になってきたのです。
 

相対的に役に立つためには大型店対策もその一つですが、大企業が手を出すことが出来ない、細かなニッチな部分でも役に立つように努力をしていこうと決意をしたのです。


兎にも角にも、役に立つように自らを改造しなければならないし、その役に立つことがそのまま、生きる力となるのだと思いました。子供たち4人が通っていた小学校での学校運営協議会でも「生きる力とは役立つことだ」と主張してきました。
 

生きる力とは、そのまま、世の中で、生かされる力であり、生きるのではなく生かされているとも言えそうだ。
 

私も店も、より良い眠りを提供することによって、役に立てるのであり、どんなに苦しい時でも、つらい時でも、夜はぐっすりと眠れるようにしてあげれるような存在になろうと決意したのです。


なぜなら
 

よく眠れると 笑うことが出来るはず。
よく眠れると 人生課題にしっかり立ち向えるはず。
よく眠れると 疲れがとれてファイトが沸くはず。
よく眠れると 穏やかになり優しい心になるはず。
よく眠れると 夫婦愛和、家庭円満、家内安全となるはず。
よく眠れると 頭がさえて、いろいろなひらめきも、もらえるはず。
よく眠れると 世の中平和になるはず。
 

人は「幸福だから笑うのではない、笑うから幸福なのだ」とアランの『幸福論』と同じように人は眠れば幸福になれるはずです。


そのような眠りが提供できれば役に立つ存在になれるのですが、父から学んだ「人は眠るのではなく、眠れされている存在」ということを、もっともっと、眠ることについて勉強して、役に立つ存在になりたいと思って参りました。
 

私は、田舎町のふとん屋の店主でありながら、日本睡眠環境学会で、1999年 2000年 2002年 2003年 と 眠環境改善第三の鍵 「共生〜共眠」 を発表し、唱え続けてこれたのも不思議です。
あの時の使命感ともいえるその信念と度胸は、学会でご一緒させていただいた福島大学の大先輩である枕博士・故・加藤勝也氏のおかげと深く感謝しています。
 

<「生きる力」と「眠る力」>
 

「生きるのではなく生かされている」と言うことと「眠るのではなく眠らされている」が同じだと亡き父から教え込まれてきました。
 

この役に立ってこそ、生かされる、「我が身が助かりたかったら、人に尽くせ」と教えられた人の生きる道は、正しいことだと思ってここまでやってきました。
 

睡眠力も自分のことだけ考えていては駄目だと思うのです。


実際に 自分もそうですが、眠れないで困った時に眠ろう、眠ろう、眠らなければと、もがくとますます眠れなくなってしまいます。
そんな時には自分のことを一旦、棚に上げて、世界中の人々が平和で安眠できるようにと祈ることが自然に、自分も眠りに導かれる術であると試してきました。


自分が先に行くと上手くいかないのです。頭の良い人でも、自分のことばかり考えると頭の中が混乱して、睡眠障害といって国会の証人喚問にも出られなくなってしまうのでしょう。


実際に、学生時代に、あんなに勉強のできた人が、残念なことをしている場合もたくさんあります。
 

生きる力と、眠る力。自分で生きているようで、生かされている。眠っているようで眠らされているのですね。


そのような天然自然の法則のようなものがあるのだろうと感じながら、人々に、心も身体もやすまる「安眠」を人々に届けることができれば、それが生業となり、自らも助けていただける。生きる力も授かるのでしょう。


そのような道理を、自然の摂理をいつの日にか確認できたらと思って、「まちのふとん屋時代」を過ごしてきました。。
 

先代の掲げた「しあわせな夜をあなたに」と言うテーマを、自分が後を継いで数年後に「人々に健康で快適な眠りを届ける」と書き換えてふとん屋をやってきました。
 

そして、その思いをインターネット上にも載せようと試みたのでした。


1996年、Yahoo!Japan開設と同じ年に、田舎町のふとん屋としては、どこよりも早いインターネットへの取り組みができたのも不思議です。
 

父が亡くなったのが大学4年の10月1日・会社解禁の日でした。予定していた会社への就職は白紙になり、父の葬儀等を終えてから、東京の商事会社に就職。そこで全国の支店との集配信業務を行うコンピュータ室へ配属となりプログラムの教育も受けさせていただきました。
 

磐田に戻ってふとん屋となってから、すっかりコンピュータとは縁遠くなっていたが、「昔ととった杵柄」とばかり勝手に「自分はパソコンが使いこなせる!」と思いこんだのでありました。あの時、あの会社に、そしてコンピュータ室に配属されなかったとしたら・・・・父が10月1日に他界しなかったとしたら、安心と安眠、心和ませる蚊帳や、睡眠改善に役立つロハスな枕をお届けすることは、どう考えてもできなかったであろう。


かくして、どこの誰よりも早く、みなさまの安眠の担い手となれますようにと、anmin.com を取得してネットの中に入っていったのです。



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