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第一幕 三島屋ふとん店時代 


生まれた時からふとん屋であった私の選んだ両親は静岡県磐田市で「三島屋ふとん店」を営んでいました。


 <背景・両親のこと>

 
亡き父は祖父が若くして他界したため、医者になりたいという志を捨て、大阪の叔父の下で修行し、戦前から大陸との綿花の交易で財を成した大阪の叔父の下で修行をし、1951年(昭和27年)「三島屋ふとん店」をはじめました。
その時大阪で知り合った母を連れて磐田に戻り、開業したのでした。


当時、三島屋ふとん店のキャッチコピーは「しあわせな夜をあなたに」とあちらこちらに掲げられていました。

 
物不足の時世、寝具(ふとん)は社会的な要請を受け、また化学繊維・マットレス等の出現は寝具の供給と需要を高め、三島屋ふとん店もどうにか軌道に乗った商いをさせていただいていました。その中で私たち妹弟も健やかに成長させていただきました。


この「三島屋ふとん店」は父が亡くなる3日前まで続きました。その「三島屋ふとん店時代」私の幼少年期・青春時代が、みなさまへの安眠の担い手になるべき「能力開発期」でありました。

 



売り出し開店前には行列ができるほどの盛況ぶり
 

両親は夫婦仲良く三島屋ふとん店を運営していましたが、1971年(昭和46年)母は肺炎をこじらせ41歳の若さで他界。
 

同時期、父も白血病と判断され死の宣告を受けていました。父は商売を続ける気力を失い店を畳む覚悟でいたらしいと、あとになって聞きました。


そこに出会ったのが義理の母。義母は父に愛と勇気とチャンスを与え、父もしっかりそれに応え店を再興することとなったのです。支店・営業所を設け、三島屋ふとん店は時流に乗って勢いのある店として、生まれ変わったのです。そんな中で私たち兄弟姉妹も再び、のびのびとした少年・少女時代を送らせてもらいました。
 

しかし、以前より白血病で死の宣告を受けていた父にとっては、当時の商売のあり方は違うと思っていたようでした。
実際に販売している寝具は、化学繊維、ウレタンマットレス、アクリル毛布などで、本当に良い「眠り」が得られるだろうか? そんあはずはない!と
父は亡くなる5年ほど前から インドより高品質の綿を取り寄せて 「本物ふとん」 を製造・販売をするようになりました。
三島屋ふとん店 謹製の本物ふとんのPRにつくった貴重なテープが残っています。


 ↓ 下の画像をクリックすると「本物ふとん」が聞こえましょう。

菊屋の原点 本物ふとんテープ



この考え方こそ、私が父から受け継いだ無形の財産であり、使命でありました。

いつの日にか、この考え方を人々に提供することだと若い私は、このテープを大切に保管してきました。

 

それにしても、私が倒れてしまえばこのテープはそのまま「お蔵入り」だったのでしょうが、ITの急速な発展により、多くの方々に聞いていただけるのを、父はきっと草葉の陰から喜んでいることでしょう。 是非聞いてあげてみてください。


同時に父は、磐田の隣の浜松の地に「能力開発研究所」なるものを開設したのです。
 

「能力開発研究所」では,誰もがそれぞれに天から与えられた特技(個性)を活かすべく天の声が聞き取れるよう、こころを空にすること、清い心で眠りにつくこと、そのための眠りにつく前の心構え、一日の終え方・はじめ方等、自然に抱かれる「眠り」の啓蒙活動が展開されたのです。


父の晩年の仕事は、ふとん屋ではなく、眠りと個性の発揮についての啓蒙活動であったと言えましょう。商売の域を脱して、そのような活動ができた父は幸せだったのだと思います。私にとって、あこがれの父だったのです。


 

父と二人 昭和43年
小学6年生の私と父


 私も、父から、人は眠るのではなく、眠らされる存在だと教え込まれてきました。


<学生時代 流れ流れて福島へ>


1975年 私は福島大学経済学部に入学しました。


2011年3月11日の東北大震災と福島原発事故以来テレビで、新聞でよく目にするようになったあの福島に青春の4年間過ごすことになったのです。


「大学など、どこで学んでも変わりがない」と言われますが、父亡き後のふとん屋を継承していく私の場合、この福島大学以上も福島大学以外は全く考えられないのです。


この「三島屋ふとん店時代」に、福島の地で学ばせてただいたのには大きな神のお導き・ご恩恵があったこと、この福島大学でなければ、今の私は存在していなかったでしょう。
学歴など全く関係ない、ちいさな小売店・零細企業にあって、学校ではいかにモノの見方、考え方を師のもとで、仲間たちと共に身に着けたかが生存していくうえでも大きな経営資源だと思い知らされています。


とはいえ、「日本一の大学で学ばせてもらえた私は日本一の幸せ者である。」と心の底から感謝できたのは、この大学を卒業して40年を経過してからのことでした。


福島へのご縁というのは ・・・・恥ずかしいのですが、私は高校3年の12月「13日の金曜日」、寮内の飲酒問題に連座して名誉の無期停学になったのです。
それまで、全寮制の高校で私は、人一倍、真面目に勉学に勤しんでいたつもりでした。


大学受験を間近に控えた、12月13日、?その夜は寒くて、暖房設備のない古い木造の寮舎、当時冷え性んだった私にとって、たとえ蒲団があたたかでも湯たんぽが必要でした。私は寮の風呂場へ湯たんぽをもってお湯を入れに行ったのです。
ところが、風呂は寮母さんが使用中でやむなく風呂の前の廊下で待っていたところ、すぐ横の部屋で酒宴をしていたのです。
高校3年生になると、寮では一人一部屋になっていました。その部屋の同級生が友人3人を招きガスコンロを使って鍋をしたりお酒の燗付けをしていたのです。彼らはかなり酔っぱらっていたのでした。私はモノのはずみでその部屋に湯たんぽを抱えたまま入り込み、ちょっと一杯・・・としたところで、ドンドンドン。「開けろ!」と当直の先生がやってきたのでした。
酔っ払いの同級生を3人を窓から外へ逃がし、その部屋の住人としらふの私が2人で酒を飲んだといして即刻、無期停学となったのです。父は真夜中に、呼び出されて、磐田から静岡へ私を引き取りに来てくれたのです。


逃がした仲間も自首して、私はちょっと一杯、ということが分かったのですが、飲酒は飲酒。無期停学は1月いっぱいとなりました。高校3年生は1月で学校は終わり、卒業式だけは出席が許可されたという形になりました。


それまではま真面目にやってきたつもりの私は、受験勉強に身が入らず、2月からはじまった大学受験はことごとく失敗したのでした。あの12月13日の金曜日が私の自制を狂わせたのだと思ったのです。


商家の長男であるから経済・経営学部を選んできましたが、福島大学は思ってもみませんでした。入試の願書は締め切り間際、駆け込み受験であったので受験番号は最後から10番目くらいで、やっと受験票を手にすることが出来ました。
今の入試制度とは全く違い、国立大学一期校、二期校に分かれていて、福島は二期校で試験科目は数学も理科をはじめ、社会科も2科目あり、受験生にとってはやっかいな大学だったのです。


流れ流れて福島へ 東海道新幹線の始発駅の東京駅と東北線の上野駅は山手線で、わずか4駅だがずいぶん遠いと感じました。はじめての「ああ、上野駅」はとても寂しかった記憶が今も鮮明に残ています。
なぜ自分は福島へ行くようになったのか?そんなことは18歳の私にはわかりませんでした。ただ寂しかったのです。住めば都とは聞かされてはいましたが、とても暗いところへ行くような気がしたのでした。
 

ところが還暦も過ぎ、卒業して40年以上経過するとその意味が分かってきたのです。
かくして、最後の砦であった福島大学経済学部に拾ってもらいました。世間では入学シーズンが目前の、1975年(昭和50年)、年度末ギリギリの3月30日、「アダタラヤマニハルキタル・オメデトウ」の電報が我が家に届きました。



福島大学だからこその5人の師


自由・自治・自立の精神が旺盛な大学で、文部省から来た学長を追い返し、教官・職員・学生からなる三者で選出した学長を擁立させた大学です。ですから国立大学としては最も国からの交付金の額が少ない貧乏大学でありました。


しかし、この流れ流れて辿り着いた福島、1学年わずか240人のこじんまりとした福島大学が私にとって日本一の大学となったのです。


この福島でなければ、この菊屋を維持・継続していく力は得られなかったでしょう。そこで私にとって偉大な5人の師と結ばれたのでした。


それは還暦を過ぎて生きる意味、生きる使命が分かってからなるほどなあと気づいたのであります。
 

その5人の師とは順を追って、金融論〜後の地域学の下平尾勲先生、元福島大学学長の山田舜先生、枕博士・加藤勝也先生(以上、ご3名は故人)と 眠りと金縛りの福田一彦先生、生まれ変わりの生き甲斐論の飯田史彦先生、以上の5人の先生が私の「まちのふとん屋時代」、「ネットの蚊帳屋時代」そしてここからの新しい時代を力強く生きていくための知恵と力と勇気を与えてくれたのでした。


それぞれの時代に必要だった大切な恩師となったのです。


私の人生との組み合わせはこの福島大学をおいて、考えることはできません。
流れ流れて福島にたどり着いた意味もおのずと証明されたのであります。


高校までは勉強をするというけれど、大学では学問をするとよく言われます。
学んだことが、しっかり活かせる「知を力に」なる学びの場が与えられました。
 

一人の教授に対して学生が7〜8人という国立大学の強みから、当時の福島大学では1年の後期からゼミへの参加が許されたのです。福島ならではの価値ある邂逅がありました。



1.下平尾勲先生とITと小売店・商店街における「社会発展の法則」


大学1年の後期に私の選んだ先生は下平尾勲先生。マルクスとヘーゲルの「経済学批判」をテーマとして生産力と生産関係の矛盾が社会を発展させるという「唯物論的歴史観」を学びました。
鉄砲に対して武田の騎馬隊が通用しないと同じように、IT(情報通信技術)が発達したところに旧態依然の商売が通用しなくなるだろうと、いち早くホームページの開設ができたのはこの福島での学びがあったからであります。


移行するであろう新しい生産力段階にあった構造変革、その展開を予想できたのは下平尾先生のゼミ生だったからだと思っています。
実は、2007年2月に、これまた不思議なご縁で30年ぶりに恩師である下平尾勲先生の最後の講義を沖縄で聴かせて頂いたのです。


この講義の冒頭、先生は「中小企業は倒産する運命にある」と言われました。私は懐かしく思いながら真面目に聞いていましたが、他の受講生である中小企業経営者はビックリした様子でした。


世の中の流れ、社会発展の方向からも、寡占化・独占化が進み、中小企業は淘汰されるのであります。
けれども学生時代と違って、この時は中小企業経営者の端くれである私は、先生に「世の中の役に立つように変化し続けていけば、倒産しないで行けるはずです。世の中の役に立つ変化の方向を模索していくしかありませんね。」と話しました。
すると、下平尾先生は「君は、勉強の方はさほど優秀ではなかったように思い起こしたけれど、しっかりと勉強の仕方を身につけていてくれて、嬉しいよ」とお褒め(?)いただいたのでした。
我々地域の中小零細の店や企業は、植物のようなもので、そこに根を張って、養分をいただくが、太陽の光を受け、二酸化炭素を吸収して、きれいな空気を放出してきた。そこに大資本がやってきくる。彼らは動物だ。動物たちは、我が者顔で、たくさん餌をあさって、なくなるとどこかへ移動していくのですが、植物である地域の小売店は何処へ行くこともできずにへたばってしまう。弱肉強食とも言える自然界の掟でもありましょう。
役に立たなくなったら、お呼びでなくなったら、「これまた、失礼」とその場を去らなければならない。存続も許されなくなる。
ただ、ここで問題になるのは、その動物がどこかへ行ってしまうと、巨大な店舗は廃墟となり、街そのものも、寂れていくということだ。・・・・・・私たちの商店街も、名前はジュビロードと全国区なみですが、ご他聞にもれないシャッター通り、何とか役に立つように変わらなければと思っているが、相対評価をされて、誰に対して、どのように役に立つのか、役に立たしていただかなければ生きていけない身の上だと言い聞かせているのだが・・・・。
生業として立っていけなくなった時、もう一度、使命を考えるべきだ、
「我が身助かりたかったら、人に尽くせ」の理を、実践を通して証明させたいと思ってきた。



2.山田舜先生(元福島大学学長) 二度の「被ばく」体験と蚊帳の役割


大学2年の後期からは本ゼミがはじまりその時私が選んだのは山田舜先生の日本経済史のゼミでした。メインの文献は山田盛太郎著「日本資本主義分析」


その当時、この山田ゼミは日本経済史の分野では日本一のレベルだと言われていた。


山田先生はボーリングもお好きでゼミのボーリング大会やコンパの席でもいろいろとお話を伺えた。


山田先生は広島で原爆被爆されたが、お元気で90歳までしっかりとご活躍された。


山田先生は広島に原爆投下の数日前、呉の海軍工廠で学徒として働いておられた時に空襲に遭い、広島市内のご自宅の蚊帳の中で、養生されていた時に、原子爆弾が投下されました。


ピカッと、一瞬にして、窓ガラスも粉切れになって飛び散ったのですが
「蚊帳のおかげで助かった」と何度も聞かされていました。
私は密かに、「麻の蚊帳」だったから、放射線も避けられたので、先生はお元気でおいでになったのではなかろうかと思い続けていました。
先生は広島中学時代に広島で被爆され、東京大学へ進学し、福島大学で40年あまり教授をされていたのですが、あの東北大震災での原発事故で、再び、被ばく者となったのです。
原爆も原発も同じだと、元気でご活躍されておいででした。
私たちは戦争が終わわってから生まれましたので、戦争を知りません。けれど、戦争体験を何度も聞いて育ちました。
同じように、次の世代にも、その次の世代にも戦争の悲惨さ、核兵器の恐ろしさを伝え続けなければなりません。
広島市長の「平和宣言」を今一度、胸に刻み、平和の道を歩んでいきましょう。


2011年の東北大震災と福島原発事故で大きな被害を被った福島の地で、山田先生から学んだことを教訓として、蚊帳や安心して安眠できる平和な日本にしていかねばと思うのであります。
そして人々が安心して、安眠できますようにと菊屋は「安眠宣言」を唱えて、前に進みます。


「相手を殺さず身を守る」平和の象徴である蚊帳の精神で、憲法九条を擁護し、福島の惨事を二度と起こすことのないように脱原発の旗を掲げて、先生の志を次代にも残したいと思っています。


3.加藤勝也氏 枕博士  ヘンプあんみん枕の生みの親


1990年代初頭に枕革命を起こした加藤勝也氏は我が福島大学経済学部の先輩であった。偉大なる枕革命の元締めが、同期200名足らずのこじんまりとした大学の先輩がこんな身近にいてくれるのはたいへん心強く思いました。
個人的に第三子にして長男誕生の記念講演会を開き、加藤勝也氏を磐田の市民ホールにお招きして枕選びの講演会を開催した。
そして枕の加藤理論と加藤式枕のインターネットでの発信・販売の承諾を得た。


かくして1996年 anmin.com を取得してITの世界に名乗りを上げることが出来た。ヤフージャパンと同じ年の開設であった。


その後、加藤勝也氏の晩年には麻でつくった「ねいるケアあんみん枕」を共同開発し、「加藤死すともあんみん枕よ永遠に」と大切に育てていきます。


4.福田一彦先生 金縛りが得意の睡眠博士


睡眠の先生、とりわけ金縛りの先生として、睡眠学会等で著名な先生である。
福田一彦教授にここ磐田までお越しいただきこの地域12校の高等学校のPTA研修会に「中高生の眠りとメンタルヘルス」の題名でご講演をいただき、地域で、学校で、眠りの勉強をさせていただいた。
 

また、2009年(平成21年)9月19日に新聞発表された弊社のオリジナル枕・ねいるケアあんみん枕は加藤勝也先輩のご指導を受け、世に出すことができたのだが、翌月10月7日に加藤氏はご永眠されたので、枕博士として最期の集大成の枕となったのです。これも静岡から、流れ流れて福島大学へ、なんとか間に合ったという不思議なご縁だと感謝しています。
 

そして、この福島が2011年(平成23年)3月11日の大震災と原発事故で痛めつけられ、大学の果たす役割も大きなものになっていることを目の当たりにしてきました。


私たちの時代にもそれなりに「知を力に!」とみんなと励まし合ってきたけれど、先生方をはじめ、今の学生さんたちの逆境での学びの姿勢にエールを送りたい。我が福島大学剣道部も私の在学中には全国大会への出場はなかったのですが、男女そろって全国大会出場という素晴らしい成果を残している。
 

震災翌年、2012年の福島大学経済学部の開学90周年式典に出席して、私のゼミの教官で広島とこの福島で生涯に2度も被爆体験をもつ山田舜・元福島大学学長(2017年・享年90歳でご逝去)のお話もしみじみと伺ってきた。<※1> だから私は脱原発。原発再稼働反対を叫ぶ。


5.飯田史彦先生 魂は永遠に 健やかに眠りいつか安らかな眠りへ


私は直接お会いしたことのない私よりお若い、1990年に下平尾勲先生の助手のような若手の先生が福島大学の教官になられました。飯田先生はなんと生まれ変わりの生き甲斐論を我々の学術文集である「商学論集」に発表されたのがきっかけで一大ベストセラーになったのです。
時代の要請であったのだろう。弁証法的唯物論の砦であった福島大学の新しい夜明けのようにも感じだ。昭和の福島大学には考えられなかったことが平成で起こり、退官して京都で自由人として活躍されている令和の時代にふさわしい方です。


かくして「流れ流れて福島へ」の私の学生時代は、剣道部に所属し、日本経済史の唯物史観を専攻していたが、大学3年の夏休みには父の運営する「能力開発研究所」で父の手伝いを少々することができた。
 

ふとん屋の手伝いは妹たちがしてくれたが、私は人間それぞれの役割、使命について、例えば、同時代に生きたカール・マルクスと天理教の教祖中山みきの類似性と神懸かりについて父にレポートを書いたりした。・・・・・・唯物論的に神の問題を考えさせられた時期であった。今思えば、本当に懐かしく、いい思い出である。
 
 
私が福島で青春を謳歌いる時、父は、「人々が、生まれながらにして、それぞれにもち備えた特技・個性をもって社会で活躍できるように眠りを大切に育んでいく!」という使命感を抱きながらも、志半ばにして他界。享年48歳でした。
 

父が他界したその日は、私が大学4年生の10月1日。当時はこの10月1日が会社解禁日で、私は会社訪問の待機していた東京で訃報を告げられ、会社訪問をキャンセルして、父の元に向かったのでした。
 

死を予期していたのでありましょう、父は他界する3日前に社名を「三島屋ふとん店」から「菊屋」に代えて逝ってくれました。
 

父亡き後、店を義母にお任せしたが、義母の再婚により、私は晩年の父の意思を継承するためにも、なんとか「のれん」だけはと言う思いで、私は東京でのサラリーマン生活にピリョウドを打ち、家業のふとん屋を継ぐことになったのです。
 


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